スペイン
私がスペインに出かけたのは、バルセロナ・オリンピックの少し前で、ちょっとしたスペイン・ブームの頃です。アントニオ・ガウディの建築物などが見たくて出かけたスペインでしたが、面白かったのは、すれ違った人たちの私たちに対する反応やちょっとした仕草で、同行していた友人Sと、毎晩その日一日を振り返っては笑い転げるほどでした。
旅のルート
バルセロナ→(夜行列車)→マドリッド→カスティーリャ地方の古都(トレド、セゴビア)→ラマンチャ地方→(アルマグロ、カンポ・デ・クリプターナ)→マドリッド ※ タルヘタ・トゥリスカというスペイン鉄道周遊券を使っての旅です。
スペインいろいろ
カタルーニャ地方、ガウディの建築、サグラダ・ファミリア、フラメンコ、オスタルP、オレンジとサン・ホセ市場、モンセラ、夜行列車、トレド、セゴビア、ラ・マンチャ地方ラ・マンチャ地方[アルマグロ][カンポ・デ・クリプターナ]
マドリッド[ゲルニカ][空港行きバスのスト]
スペインに関する参考文献 |
カタルーニャ地方
カタルーニャ地方はフランスの南、スペイン北東部のバルセロナを中心とした地方です。私が始めて話をしたスペイン国籍の人は、バルセロナ出身の女性でした。(なお、彼女と話をしたのはロンドンでのことです) 彼女はイベリア半島の絵を描いて、バルセロナを中心としたカタルーニャ地方や、マドリッドを中心としたカスティーリャ地方、ポルトガルを線で囲んで、カタルーニャは、スペインの一地方というよりも、一つの独立国なのだ、そもそも、カタルーニャ語(※)といわゆるスペイン語の違いは、スペイン語とポルトガル語の違いよりも大きいのである、と、熱っぽく語ってくれたのでした。
スペインはスペイン以外の何ものでもないと、まるでジグゾーパズルの一ピースであるような気がしていた私に、彼女の話は何となく衝撃的でした。が、かといって、すぐに何か始めるでもなく、約3年が経ち、バルセロナ・オリンピックを前にカタルーニャ地方が注目されるようになってやっと、私はスペインの旅行ガイドブックを開き、Sを誘ってスペインに出かけたのでした。
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※ 「○○語」という時、文化的な背景よりも、政治的な線引きが優先されます。となると、カタルーニャはやはりスペインの一部ですから、「カタルーニャ語」ではなく、「カタルーニャ方言」と呼ぶべきなのかもしれません。でも、ここではカタルーニャの人たちの気持ちを優先して「カタルーニャ語」と呼ぶことにします。なお、「カタルーニャ語」は、「フランス語+スペイン語」を2で割ったような言葉で、私のブロークンなフランス語(日本語とスペイン語は、母音の発音がよく似ているのです。そのため、私は、「おまえはスペイン人のフランス語初心者が話すようなスペイン語を話す」とよく言われます)が、よく通じました。また、「カタルーニャ」は、日本語では「カタロニア」になることもあります。
ガウディの建築
バルセロナには、アントニオ・ガウディの作による個性的かつ奇妙な建築物がいくつかあります。彼のパトロン、グエルのために作られたグエル邸、今はアパートになっているミラ邸、骸骨モチーフの窓が印象的なバトリョ邸、独特の曲線のモザイクのベンチが印象的なグエル公園など。グエル邸は、ゴシック地区と呼ばれる中世の雰囲気を残す旧市街にあります。ここは狭い通りが入り組む地区で、グエル邸の面するノウ・デ・ランブラ通りもとても狭く、全貌を見るのは難しいのです。で、グエル邸の正面にあるホテル・ガウディに泊まってみましたが、全景をとらえるとまではいきませんでした。グエル公園は改修工事の最中で、モザイクのベンチに座れなかったのが心残りです。
サグラダ・ファミリア
ガウディの建築物で最も知られているのは、サグラダ・ファミリア(聖家族教会)でしょう。トウモロコシを突っ立てたような奇抜な形の教会です。そもそもこの教会の建立を提唱し、建設委員会を組織したのは、バルセロナの本屋でした。彼が最初の石を置いたのは1882年のことですが、初代建築家はフランシスコ・デ・ビリャールが建設委員会と意見を衝突させ辞任してしまったために、翌1883年に、ガウディがその後を継いだのです。彼はこの教会の建設に身も心も捧げましたが、教会正面の「生誕のファサード」さえ見ることなく、1926年に交通事故でこの世を去っています。(『バルセロナにおいでよ』参照) 建設は現在も続けられ、日本人彫刻家の外尾悦郎さんもそれに関わっていますが、建築費用は観光客が払う僅かな見学料が主だそうで、完成まで100年とも200年とも言われています。
遠くから見ると、怪しげに見えるサグラダ・ファミリアですが、間近で見てみると、穏やかな表情の天使たちと緩やかな曲線に囲まれ、優しげな印象です。
フラメンコ
スペインと言えば、闘牛にフラメンコですが、闘牛のシーズンは、3月19日にバレンシアで行われるサン・ホセの火祭りに始まるため、3月前半にスペインを旅していた私たちは、残念ながら観ることができませんでした。
フラメンコの本場は南のアンダルシア地方ですが、バルセロナにもタブラオ(フラメンコのライブ・ハウスみたいな酒場)はあるので、バルセロナ初日に早速観に行きました。スペインの夜は遅く、一般家庭の夕食時間が夜9時とか、10時ですから、酒場で踊りが始まる時間はもっと遅い時間です。日本から数十時間かけてやっとバルセロナにたどり着いた私たちは、ちょっとアルコールを体内に入れた(タブラオで、何も飲まずにフラメンコだけ観るわけにはいかない)だけで眠くて眠くて、小さな丸い背もたれのない木製の椅子から、転げ落ちないようにしないのがやっと。しっかりした腰のダンサーたちは迫力がある、というよりも、うとうとしているのがバレタら怖いだろうなあという印象で、私たちにはまるで我慢大会でした。私たちは一、二時間で宿に引き上げましたが、ベテランのうまい踊り手が登場するのはもっと後、本当に夜が更けてから、だそうです。
オスタルP
バルセロナの一泊目、ガウディ作のグエル邸を見るために奮発して、ホテル・ガウディに泊まった私たちですが、二泊目以降は宿泊費を節約することにしました。それで見つけたオスタルPは、バルセロナのシャンゼリゼ大通りと呼ばれるランブラス通り、地面にあるミロのモザイクのすぐ近くという、バルセロナを観光のに絶好のロケーションにあるにも関わらず、格安のホテルです。なお、オスタルはホテル(スペイン語では「オテル」より格が落ちる安い宿泊施設のことです。
さて、このオスタルP、建物いっぱいにトイレの消毒と汗の臭いが充満し、ベッド一面には髪の毛がへばり付き、部屋にあるトイレのドアは閉まらない、でも、なぜか気が滅入ることもなく、笑えてしまいます。でも、トイレが閉まらないのはまずい、と、Sが、掃除をしていたおじさんに身振り手振りで伝えると、おじさんは巨大なヤスリみたいなものを取りだし、トイレの一部を削ってドアが閉まるようにしてくれました。
オレンジとサン・ホセ市場
私たちが散策に出かけようとすると、前述のオスタルPのおじさんは廊下の窓枠に腰掛けて、オレンジを食べながら掃除の手を休めているところでした。おじさんは食べかけのオレンジを半分、私たちに手渡したのですが、たぶんあの手はトイレの掃除をしたそのままの手なのだろうなと思いつつ、私たちは「グラシアス(=ありがとう)」と言って、オレンジをさらに半分づつにして、口に放り込んだのです。
そのオレンジはとても美味しかったために、私たちが直行したのが、オスタルPのほど近いところにあるサン・ホセ市場です。ランブラス通りに面したこの市場は、バルセロナの胃袋とも呼ばれ、野菜や果物、魚介類などがいっぱいでとても活気があります。私たちはここに何度も通っては、いろいろ買い物してみましたが、一番手軽に食べられて美味しかったのは、やはりオレンジです。
モンセラ
バルセロナから60キロくらいのところに、地面からにょきにょきと隆起した白っぽい灰色の岩山があり、その中腹に、少年合唱団で有名なベネディクト系の修道院があります。これが、カタルーニャの聖地、モンセラです。この修道院には、カタルーニャの精神の中心である黒いマリア像もあります。ナポレオンが侵入した時だったか、ファシストに支配された時だったか、過去において、カタルーニャ語(※)が禁じられた時も、このマリア像の前では、カタルーニャ語の祭儀が行われていたそうです。また、私にカタルーニャ地方について教えてくれたバルセロナ出身の女性の名は「モンサ」ですが、「モンサ」というのは、モンセラに由来する名前、または、「モンセラ」という名の愛称だと思われます。
というわけで、モンセラはカタルーニャの人たちにとって、重要かつ神聖な場所に違いないのですが、小学生やら何やら観光客が多くて(という私たちも"one of them"に過ぎませんが)、神聖なイメージは残念ながら持てませんでした。
夜行列車
バルセロナで数日過ごした後、私たちは夜行列車でマドリッドへ向かいました。奮発して二人部屋の一等寝台に乗りましたが、洗面台など必要なものが、きちんとコンパクトにまとまっていて、なかなか気持ちがいいのです。ベッドは二段ベッドで、上には落下しないように天井から太いベルトが二本渡してあります。が、小学生の頃に二段ベッドの上から落ちて脳震盪を起こし、二日間入院したという過去のある私は、下の方がいいなあ、と思いながらふと下を見ると、Sが既にすぅすぅ寝息をたてていたのでした。パリの学生寮みたいなところでスウェーデンの女の子と部屋(二人部屋なのに二段ベッドだった)をシェアーした時もそうでしたが、嫌だなあと思いながらも、私は二段ベッドの上に寝る運命にあるようです。でも、このベッド、なかなか寝心地が良く、私は、落下することもなくぐっすり眠ることができました。
なお、バルセロナからマドリッドまでは、サラゴッサ経由で8時間。時間通りに到着しました。どうせ遅れるよ、と高をくくっていた私たちは「早く下りなさい」と車掌さんに注意されてしまいましたが、室内の写真を撮る間、車掌さんはにっこり笑って待ってくれました。
トレド
トレドは、マドリッドの南、中世のたたずまいとイスラムの影響を残す都市で、画家エル・グレコが生涯を過ごした町としても知られています。陶器やタイルを売る店も多く、タイルを貼りつめられた鉄道駅の構内(こちらを参照)は、圧巻でした。
セゴビア
セゴビアは、ローマ時代の水道橋と、小高い丘の上の上にそびえる城で知られる町です。このお城は、1474年にイザべラ女王がカスティーリャ王国の王妃になることを宣言し、1570年にはフェリペ二世が結婚式を挙げた城で、ディズニーが『白雪姫』の城のモデルにっしたことでも知られています。
セゴビアの名物は子豚の丸焼きです。私たちも水道橋の下にあるレストランで、セットをいただきましたが、子豚の味よりも思い出深いのは、デザートはフラン(=プリン。こちらを参照)にしようと「ドス・フラネス・ポル・ファボール」と小さな声で練習していたら、それを聞きつけたお店のおじさんが早々とフランを持ってきてくれたことです。
ラ・マンチャ地方
ラ・マンチャ地方は、イベリア半島の真中に広がる田舎です。ドン・キホーテゆかりの小さな町や村がいくつかありますが、取りあえず私たちは、ラ・マンチャの交通の要地、アルマグロに向かうことにしました。
マドリッドのアトーチャ駅で、ラ・マンチャへ向かう列車に乗り込むと、日本人がこんなローカル列車に乗るはずないぞ、と、不信に思った人たちが私たちの周りに集まってきたのです。アルマグロに行くんだ、と一生懸命説明していているつもりが、何しろスペイン語がほとんどできないので納得してもらえずにいたら、遠くから"I can speak English!"と走ってきたおじさんが通訳してくれてやっと、人々は安心(?)して離れていったのでした。
アルマグロ
アルマグロは、実は、ドン・キホーテよりも国際的な古典劇のフェスティバルと中世の修道院を利用したパラドール(城や修道院を利用した高級宿泊施設。ポルトガルではポウザーダと呼ばれます。こちらを参照)で知られています。
セゴビアの鉄道駅から町の中心までは遠いのでバスを利用。このバスに、小学校一年生くらいのしっかり者の女の子が一人で乗っていて、運賃を払おうと小銭を両手にいっぱい持っておたおたしている私たちを助けてくれました。また、私たちはそれまでずっとスーパーマーケットを探しながら、見つけられずにいましたが、このバスの中からスーパーを見つけたSが「あ、スーペル・メルカド(=スーパーマーケット)!」と突然叫び、車内の注目を一身に浴びたのでした。
バスはセゴビアの城壁の外の水道橋のたもとに停まります。ちょうどお昼時だったので、私たちは、水道橋の下にあるレストランでセゴビア名物、子豚の丸焼きのセットをいただき、デザートはフラン(=プリン。こちらを参照)にしようと、「ドス・フラネス・ポル・ファボール(=フランを二つ、お願いします)」を練習していたら、それを聞きつけた店のおじさんが、さっとフランを持ってきてくれました。
スペイン北部、第二次世界大戦中バスク地方の都市ゲルニカへの無差別爆撃
に憤りを感じたピカソの大きな大きな絵。マドリッドのプラド美術館別館にあります。
別館の入り口を入るとまず並んでいるのが、ゲルニカ制作のための
ピカソの夥しいデッサン。気持ちが高まった所で、完成品『ゲルニカ』
が目に入る。
美術の教科書等で見慣れているはずの『ゲルニカ』ですが、
意外な程に大きいこともあって、圧倒されます。
スペインに関する参考文献
20代前半の一時期、私はスペインにかなりこだわっていて、いろいろ本を読んだのですが、今、手元にあるのは、これだけです。
小西章子著『スペイン子連れ留学』(新潮文庫)
留学そのものに関する部分も面白いのですが、小西さん留学中に亡くなったフランコ総統に関する部分や、スペインの食に関する部分が面白い。「あとがき」のスペイン料理のレシピ集を参考にして、私もトルティーリャなど作ったものです。
外尾悦郎著『バルセロナにおいでよ』(ちくまプリマーブックス)
外尾さんは、ガウディが途中まで手がけたサグラダ・ファミリア建設に関わっている唯一の日本人彫刻家です。この本は、外尾さんがサグラダ・ファミリアに関わるようになったきっかけから、バルセロナの日常生活、カタルーニャ地方の見どころなど、実用書としても使えます。以下、私事ですが、この本に出会った頃、私は、高校の教員を続けるかどうか悩んでいて、外尾さんが、大学卒業後、幼稚園から高校までいろいろなところで美術の非常勤講師を務め、教師としての生活に意義を見出しながらも、石を彫るためにヨーロッパに渡るくだりを何度何度も読みなおしたものです。
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